CHAI「N.E.O.」に見るコンプレックスの二重構造


CHAI『N.E.O.』Official Music Video

一見、美醜という基準ではなく個性をもっと認めて「みんな違ってみんないい」という価値観を持とうよ!と言っているように思える。いわゆる多様性、ダイバーシティだ。しかし、何かのインタビューでぽろっと放たれた「私らって中の下だし、いや下の下かな」という言葉。これは何を意味するのか。

彼女たちは美醜のヒエラルキーを否定しているように見えて、実はそのステージから降りていないのだ。本質的に美醜で評価される社会自体を否定するのであれば自分たちをランク付けしたりしない。中の下とランク付けする(あとから謙遜して下の下と言い換えはしたが)ということは、そのヒエラルキーにどっぷり浸かっていると自ら認めていることになる。

本当に個性を尊重するのであれば、美人であろうがブサイクであろうが同じように社会のあり方を糾弾するはずである。失礼な言い方だが、もし彼女らが既存の美醜の価値観において「美」の側、つまり顔の良さをもてはやされるような存在であったなら、そこで満足してしまいこの曲は生まれなかっただろう。この曲だけでなくアルバム「PINK」の随所で現れるルックスに対する劣等感。彼女らがこれまでの人生でそれによって悩み、苦しみ、傷ついてきたことは容易に想像できる。

ルックスの劣等感を克服する方法はいくつかある。整形して世間の評価を得る、まったく気にしないマインドを育てる、社会のありよう自体を変えようとする、各自の個性を尊重するなど。正直に言って最後の「個性を尊重する」なんてのは、表現としてはもっとも陳腐でつまらない。残念ながら「N.E.O」において彼女らはそれを選んだようにも思える。しかし、そこに至る出自はそんなに素直なものじゃなく、明らかに歪んでいる。「私はブスじゃない!むしろカワイイんだ!お前らもそう思え!私を褒めろ!」そんな厚かましささえ感じる思いがくすぶっているのである。

「NEOカワイイ」とは「カワイイ」の価値観の再定義に他ならない。今までは大きな目が、高い鼻が、細い脚が「カワイイ」だったが、これからはその逆こそが「カワイイ」のだ。「NEO」と言ってしまっている以上、これまでの価値観も肯定して全てを認めることにはならない。全ての個性を尊重するのではなく、あくまで既成の価値基準をひっくり返して、自分がヒエラルキーの上位に立とうとしているのである。そこからは世間的に美人と言われてきた人間に対する怨讐さえ感じられる。

これはコンプレックスまみれの人間が陥りがちな論理のすり替えだが、恐らく本人たちもそこに気付いてはいない。個性や多様性の尊重を謳っているのは本心からだろう。しかし、根底にあるのはやはり劣等感であり、自己肯定感の低さである。自分に自信がない、認めてほしい、カワイイって言ってほしい。だけど、自分たちなんかがそんなことを言ったら図々しいって思われて嫌われるかもしれないから、私たちも含めた全ての人間が認められるような理屈を見つけよう。そんな論理展開が無意識のうちに行われたのではないだろうか。

彼女らはこの主張をリスナーに向けているようで、自分たちに向けている。「みんな違ってみんないい」と自分たちに言い聞かせることで居場所を得ようとしている。でも、人間なんてだいたい何らかの劣等感に悩み、なんとか折り合いをつけながら生きている。個性を尊重すべし、なんてことは言われなくても分かってる。それを他人に教唆するなんてのはおこがましい。だけど自分を守るためにそう言わずにはいられない。結局、褒めて欲しいのは自分であって、他人はそのオマケにすぎない。

そうだとすれば彼女らは実に青臭い。若い。だがそこがいいのだ。一見明るくあっけらかんとした佇まいの裏から透けて見えるコンプレックスに対する叫び。まるでブルースだ。いや、パンクか?とにかくそれがCSSやESGを彷彿とさせる粗くファンキーな演奏に乗る。なんだかんだ言っても、この攻撃的でノー・ウェイブ的なサウンドこそ、彼女らが羊の皮をかぶった狼である証左だ。リスナーはこの音から、その歪んだ主張の裏側を感覚的に嗅ぎ取って、共感するのである。

 

PINK※CDのみ

PINK※CDのみ