若さと虚しさ

先ごろ41歳を迎えた。それを言うとよく驚かれる。とてもそんな年には見えないと。たとえお世辞であっても若いと言われれば嬉しい気持ちはある。ただ、一方でどこか複雑な気持ちを抱くようにもなってきた。その複雑さの正体は恐らく「虚しさ」ではないだろうか。
 
人間はいずれ必ず老いる。ほうれい線は深くなるし、眼瞼は垂れる。白髪は増え、毛穴が目立つようになる。こうした変化が数年早いか遅いかの違いに何の意味があるだろうか。そう考えると今若いと言われたところで「だから何?」と思ってしまうのだ。
 
30代後半のころはその若さに大いなる価値を見出していた。若いといわれることが素直に嬉しかった。これは自己肯定感・自尊心の低さからくるものだろう。言い換えれば自分に自信がないから、とにかく褒められたい。何でもいいから褒められることで欠損した何かを一時的にでも埋められたような気になる。加えて、誰しもが通る道であるミッドライフ・クライシス(中年の危機)もそれを後押ししていた。とにもかくにも、同年代の他人に比べて比較的若く見える、ただそれだけのクソみたいな優越感でもって自分の根底にある劣等感を覆い隠していたに過ぎないのだ。しかし、所詮は気のせい、気休めでしかない。40歳を過ぎてそこにようやく気付くことができた。
 
アンチエイジングという言葉をよく目にする。個人的に加齢による衰えに抗うこと自体は否定しない。筋トレも続けている。なぜなら健康でいたいし、体力も知力もなるべく充実したままでいたいから。ただ、問題は容姿にこだわりすぎることなのだ。それは薄っぺらい自己を大きく見せようと必死になっているだけの虚しい抵抗でしかなく、SNSでいいねをもらうために躍起になるのと全く同じ構造である。
 
とりあえず、白髪染めはやめてみた。しかし薄毛はやっぱり気になる。まだ丸裸になった本来の自分を認めきれていないのだろう。本当の意味での成熟した人間とは、こうした変化も全て受け入れて、あるがままに生きられる人のことを言うのかもしれない。